「べしゃり暮らし」6巻感想 善も悪もない平等な喪失に救いはあるか

 
 べしゃり暮らしは最新刊を読むたびに惚れ直す作品なんだけど、この期に及んでまさかまた惚れ直すとは思っていなかった。
 最新刊が出る度にボルテージが上がっていく作品は稀有だと思う。でも、自分はそれを期待して読んでる訳じゃない。どんな期待をしてるかっていえば、自分はただスポットが当たっている人物たちが、苦境を乗り越えて幸せになることを期待しているだけだったりする。
 絶望→打開のカタルシスを得るためなら、どんなに圧倒的な絶望感を得ることも読者は全く構わないのだろうか?そんなことはない。いずれ来るであろう絶望の打開に甘んじることは同時にカタルシスの波の緩衝材となる危険性を孕んでいる。どんな絶望を得ても構わない、なんて心理は読者自身も望むところではないだろう。
 じゃあカタルシスの「準備段階」となる絶望に、完膚無きほどまで絶望するとどうなるだろう?たぶん自分はその作品を読まなくなる。「なんとかしてくれ」「なんとかなってくれ」の気持ちなしに先を読むことは拷問だ。確かに待っているものがバッドエンドであっても、それが自分の心の中で、教訓、覚悟として生きることはあるだろう。しかし現実の完全な喪失の前に立てば、大抵は、打ちひしがれるか、茫然自失となるか、ただ戸惑うかのどれかしかないと思う。前に進むには、前に進まなければいけない状況にあるか、前に進ませる外部からの働きかけがあるかが重要だ。
 幸いなことに、この物語の喪失の周囲には、力ある人物たちがいる。彼らは前に進まなければならない人たちだし、互いを励まし合える可能性も秘めている。彼ら自身の力をもって彼らに喪失を受け止めてほしいし、彼らの力で喪失に呆然とする私の心を前に進ませてほしいと切に願いたい。